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命のビザを発給し6千人の命を救った杉原千畝、歴史から消された理由

2021年8月20日

日本のちょっといい話

杉原千畝

人としての決断

昭和15年(1940)リトアニアの日本領事館領事代理をしていた杉原千畝はある決断を迫られる出来事が起こります。
ユダヤ人に対してナチスの迫害がエスカレートしていた時のことです。

ナチスのホロコーストから逃れるために日本への入国ビザを求めて多くのユダヤ人が日本領事館へ押しかけてきました。

そこでビザの発給を行ってよいか日本の外務省に問い合わせてみたところ返事は「発給するな」というものでした。
日本はドイツと「日独防共協定」を結んでいたのでドイツとの関係をこじらせたくないという政府の思惑がありました。

そこで杉原は悩みます。
政府の命令に従うべきか、ビザを発給して多くのユダヤ人を助けるかの選択を迫られることになります。

命令に背けばこれまで築いてきた外交官としての職を失うことは間違いありません。

杉原は悩みながら一つの結論を下します。
ビザを出さなければ目の前にいる人たちはおそらくみな命を奪われるだろう。

「人道上見過ごすことはできない、首になっても構わない」

と決断を下しユダヤ人にビザを発給する覚悟を決めたのです。

杉原千畝の発給した命のヴィザ

その時すでにリトアニア領事館は閉鎖することが決まっていたため残された時間はあまりありません。
ビザは家族ごとに面談し、一家族につき一枚づつ手書きで書かなければなりません。

杉原は昼食の時間も惜しんで「命のビザ」を書き続けました。
そしてとうとう領事館を閉じて出発の日がやってきました。

駅にまで押しかけてきたユダヤ人を一人でも多く助けたいとの思いから車内でも書き続け、最後の一人は汽車の窓から手渡しました。

駅にはビザを受け取った多くのユダヤ人が見送りに来ていて

「ありがとうスギハーラ」私たちは決してあなたを忘れない」「またいつかお会いしましょう」

と言ってみな涙を流しながら走り去る汽車を見送ってくれたのです。

杉原が書き続けたビザは2,132枚に及び6,000人もの命を救いました。

リトアニアを出国した杉原はその後プラハやルーマニアの公使館を歴任し昭和20年(1945)の8月に日本の敗戦の知らせを聞くことになります。

その後ソ連で捕虜となりブカレスト郊外で収容所生活を送り1946年11月に杉原一家はようやく日本への帰路につきます。


帰国後に待っていた外務省からの辞職勧告

やっとの思いで祖国の地を踏んだ杉原は外務省に呼び出しを受けます。
そこで告げられたのは「辞職勧告」でした。

命令に違反した者に居場所は与えられないということなのでしょう。
その後杉原は生活のために職を転々とし、長い間その功績に日が当たることはありませんでした。

杉原が命のビザで命を救った人数は6,000人と言われていますが、その子孫たちは現在20~25万人に昇ると言われています。

命を助けられたユダヤ人との再会

戦後命を救ってもらったユダヤ人たちは恩人の杉原を探していました。
しかし外務省に問い合わせても「日本外務省には杉原という外交官は過去においても現在においても存在しない」という回答しか返ってこないため長い間消息が分かりませんでした。

こうした旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、2000年に河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。

「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、理解しがたい」
と多くのユダヤ人たちが抗議の声を上げ、杉原の名誉の回復を訴え出ました。

時は流れ1968年8月、杉原はイスラエル大使館から突然の電話を受けることになります。
その内容はユダヤ人協会があなたを探している。是非ともお会いしたいという内容でした。

在日イスラエル大使館に招待を受け、杉原に命を助けられイスラエルの参事官となっていたニシュリ氏にで会うことができました。28年ぶりの再会です。

「スギハーラ、私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年ニシュリ氏は大切にとっておいたボロボロになったビザを手に涙を流しながら千畝に感謝を伝えたのです。

この時千畝の胸の中に「私は外交官としては間違っていたのかもしれないが、自分の行いは人として間違ってはいなかったのだ」という確信がこみ上げてきました。

名誉回復へ向けて

リトアニアで発行された杉原千畝の切手

1985年1月、イスラエル政府からユダヤ人を救った人だけに贈られる「諸国民の中の正義の人」の称号を授与され、「ヤド・バシェム賞」が贈られます。

しかし、その翌年杉原は持病の心臓病で死去することになります。
鎌倉市内の病院で最後を迎えたときは享年86歳でした。

杉原千畝の葬儀にはイスラエル大使をはじめ300人に及ぶ有職者が参列したということです。

テルアビブの北に位置するネタニア市。杉原のビザを手にした生存者やその子孫が多く暮らすこの街には、「スギハラ・ストリート」と名付けられた道があり、現在も杉原千畝を顕彰する活動が続いています。

杉原の名誉を回復するという多くのユダヤ人たちの働きかけもあり、2000年(平成12年)、当時の河野洋平・外務大臣の顕彰演説によって、日本国政府による公式の名誉回復がなされました。

当時の河野洋平外相は、戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪したのです。

平成12年に岐阜県加茂郡八百津町に功績を讃える場所として杉原千畝記念館が建てられ今でも多くの外国人観光客が訪れています。

決断の部屋・杉原千畝記念館

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