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大谷翔平の活躍を支えた愛読書「運命を拓く」の著者中村天風とは

MVPを受賞し、メジャーリーグで大活躍している大谷翔平選手が渡米する前に読んでいた一冊の本が話題となっている。

その本は「運命を拓く」という本だがまさに二刀流を引っ提げて、アメリカで自らの運命を切り拓いた若者にふさわしいタイトルである。

本書の「運命を拓く」は中村天風により会員向けに発行された「天風瞑想禄」を分かりやすくコンパクトに編纂されたものだが、天風とはどんな人物だったのでしょうか。


導かれる巡り合わせで運命を変えた中村天風

中村天風は、1876年(明治9年)現東京都北区王子で生まれ、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学に入学する。
また六歳の時より立花家伝の剣術随変流の修業を始める。
天風は負けん気が強く、気象の荒いところがあり子供のころから喧嘩をした相手の腕を折ったりするほどきかん気の強い子供であった。

幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではすべて英語で講義を受けていたため語学に堪能となり成績は優秀だった。

また、柔道部のエースとして活躍していたが、熊本の名門校である済々黌高等学校との練習試合で相手選手を次々と投げ飛ばして勝利している。
それに腹を立てた相手チームの部員から闇討ちをくらい、それに腹を立てた天風は相手を一人づつ呼び出し決闘を行い打ち負かした。

最後に残った一人が出刃包丁を持ちだし、もつれあっているうちに相手に包丁が刺さってしまい命を失うという悲劇が起こってしまった。

正当防衛は認められたが責任を取って修猷館を退学することになった。

その後16歳の時に帝国陸軍の諜報員となり満州へ赴き、日清戦争に備え遼東半島に潜入し、錦州城、九連城の偵察を行い軍事作戦に必要な情報が書き込まれた地図を作製する任務を遂行する。

天風の収集した情報は日本軍の作戦に大いに役立ち日清戦争の勝利に貢献した。

命を救われる一度目のめぐり逢い

日露戦争が迫った1902年(明治35年)に再度満州に潜入し、満州生まれの橋爪という男とコンビを組み、ともにスパイ活動をすることになる。

松花江の鉄橋を爆破したり、仕込杖で青竜刀を持った馬賊と斬り合いを演じるなどの活躍を見せ「人斬り天風」と呼ばれたという。

このような生死をかける戦場で、天風は馬賊の頭目のハルビンお春という女性と出会うことになる。
お春は騙されて満州国に連れてこられて馬賊の頭目と一緒になったが、紆余曲折をへて自らが頭目となっていた。

お春は、今は馬賊の頭目となっているが、日本人としての誇りを失うことなく国のために働く同胞に対して協力を惜しまなかった。
天風にとっては心強い援軍となり、情報活動において大いに役立った。

そんなお春との間に信頼関係と連帯感が生まれ、天風が拠点を離れるときに、ハルビンお春から
「寂しくないように連れていきな、お前にやるよ」
と言われ玉齢という名の16歳の満人の少女を預かった。

天風はこの少女を不憫に思い少女の家の近くまで送り届けた。
お春との出会い、玉齢との出会いが後に天風が一命をとりとめる巡り合わせとなる。

その1ヶ月後、天風はコサック兵に捕らえられ、刑場に連れて行かれた。
杭に縛りつけられ、今まさに銃殺刑が執行されようとしていた。
さすがの天風も「これまでか」と観念をしたときに奇跡が起こった。

突然爆発音がとどろき、煙の向こうから手りゅう弾を投げつけている橋爪の姿が目に入った。
お春とあの小娘の玉齢の姿も見えた。

駆け付けたお春の率いる馬賊団がコサック兵を蹴散らしている。

予想だにしなかった出来事であったが、こうして天風は救出され一命をとりとめた。
おそらくどこかで噂を聞きつけた玉齢がお春に知らせに走ったのであろう。

しかし残念ながら玉齢はコサック兵の銃弾で命を失ってしまうことになる。
天風はこの日を命の恩人である玉齢を偲ぶ日と決め生涯忘れることはなかった。

その後天風は様々な危険を乗り越え、日露戦争が終わり29歳の時無事に日本に帰還した。

戦後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていたが、体に異変が起こる。
急速に症状が進行する奔馬性(ほんませい)肺結核に侵されていたのだ。

悪性の肺結核であり、当時は死病と言われ的確な治療法はなかった。
日本では治療法がないため最新医学を求めて渡米を決意する。

弱った心身を立て直す方法を模索した天風は、1909年、33歳のときに単身欧米に渡り、コロンビア大学で免疫系と自律神経系統について最先端の医学を学ぶが、新しい知見となるものは何もなかった。

そのためヨーロッパへ渡り有名な哲学者や識者を訪ね教えを乞うたが観念論だけで、具体的に病を克服する答えが得られることはなかった。

ドイツ、イギリス、フランスなど各地を渡り歩き、数々の著名人を訪ねたが病の解決法は見つからなかった。

失意のどん底にあった天風は「日本に帰ろう、せめて日本で母の顔を見て死にたい」という思いがこみ上げ帰国を決意する。

命を救われる二度目のめぐり逢い

帰国の途中「インド洋あたりで吐血して死ぬかもしれない」と思わせるほど天風の病状は悪化していた。

失意の帰国を決めた天風だったが、その帰路に立ち寄ったエジプトのホテルでまたしても数奇な3度めの出会いを迎えることになる。
朝、目を覚ました天風は大量の喀血をし、立ち上がることもできなかったが親切なボーイが付き添ってくれて食堂まで連れて行ってくれた。

モロヘイヤのスープも砂を噛むように味気ないものだった。
苦虫を潰したような顔を上げると、5つ、6つのテーブルの向こうに年のころ60歳前後と見られる色の浅黒い人物と目があった。

その老人が笑顔でこちらにおいでと手招きをしている。

天風がその老人の前に立つと「お前の右胸に疾患があるが、お前はまだ死ぬ必要はない」
「ついて来るか」と尋ねられた。
その時不思議にあらがう気持ちは起こらず、「わかりました」と答えていた。

それから三ヶ月後、一行はヒマラヤの第三の高峰、カンチェンジュンガのふもとの村に到着した。
この村こそ古い歴史を誇るヨガの修行の本拠地であった。

カンチェンジュンガ

天風が出会った60前後の老人はヨガの聖者カリアッパ師であった(実際は106歳だったとも言われている)。

通常は一生かかっても悟りを開けない者が多い中、天風は2年半の厳しい修行でヨガの核心部分に触れることができた。
それと並行して天風を悩ませていた不治の病と言われていた結核も姿を消していた。

1913年4月、カリアッパ師より覚者の聖名「オラビンダー」をいただき修行を終えゴーゲ村を後にした。

財を成すことになった三度目のめぐり逢い

帰国の途中、第二次辛亥革命を進めていた「孫文」と出会い最高政務顧問として助けることになった。
孫文は前年に中華民国を成立させ、初代中華民国臨時大総統となっていた人物である。

孫文の革命は失敗に終わったが、そのお礼として孫文から莫大な資金を得て帰国をすることになる。
その資金を元手に銀行や発電所を設立して実業家として成功を収めた。

実業界で順風満帆に活躍していた天風だったが、ある時ふと思うところがあり、一切の名誉と私財を投げ打って路上で辻説法を始めた。
ヨガで学んだことを広め、少しでも悩んでいる日本人を救うことを決意したからだった。

人間が本来生まれながらにもっている「いのちの力」を発揮する具体的な理論と実践論である「心身統一法」をまとめ上げ、その後「統一学会」を設立し、政財界の実力者も数多く入会するようになった。

海軍大将・東郷平八郎や平民宰相 原敬、経営の神様 松下幸之助、 京セラ名誉会 長稲盛和夫氏など、多くの偉人たちが天風に学び、自らの人生、事業経営に天風哲学を活かしている。

プロ野球の西武などで監督を務めた広岡達朗氏も、晩年の天風から直接教えを受けた一人だ。
そして最近では、現在メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手が、中村天風氏の著書『運命を拓く』を愛読書としていたことも報じられ話題の書となっている。

「運命を拓く」の中で積極的思考法(今で言えばポジティブシンキング)の重要性が説かれている。
心が積極的になれば物事が良くなり、逆に消極的になれば悪くなるという。
「撒いた種子の通りに花が咲く」
心を積極的にするためには、一切を感謝と歓喜に振り替えていくことが必要だと書かれている。

〝二刀流〟を世界最高レベルで軽々と達成した大谷翔平選手を見ていると慢心せず、いつでも楽しそうにしている姿は永遠の野球少年のようであり、見ているこちら側にも元気を与えてくれる。
この書から得たことを実践しているかのように。

天風は1968年(昭和43年)12月1日に死去。葬儀委員長は笹川良一氏が務めた。
不治の病を宣告された天風が生涯を閉じたのは享年92歳であった。

 

 

中村 天風 (著), 公益財団法人天風会 (監修)

 

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