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「台湾が親日な理由」併合時、台湾で神様になった日本人達がいた

なぜ台湾の人々はこんなにも親日的なのか疑問に思ったことはありませんか。
その答えは日本が台湾を併合していた時代に台湾のために尽くした多くの日本人がいたからです。

日清戦争の結果、下関条約によって台湾が清朝(当時の中国)から日本に割譲された1895年から、日本が敗戦を迎えた1945年までの50年間日本は台湾を併合し統治していました。

併合当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していました。
特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていたような状況でした。
そんな悪辣な環境を改善するために心血を注いで台湾の人々の民生改善のためにひたむきに尽くした日本人たちがいました。

併合したことにより同じ日本の国として明治政府はそのかけがえのない人材を惜しみなく台湾統治に注ぎ込み鉄道、道路、港を建設し、台湾経済の発展に大きな影響を与えました。
このような日本人の姿を見た多くの台湾の人達の心に伝わり、引き継がれ現在の親日間につながっています。

台湾のために尽力した先人たちの中から4人を紹介してみたいと思います。


「飛虎将軍」と呼ばれ台湾で神様になったゼロ戦パイロット

台湾で神として崇められている一人に第二次世界大戦期に戦死した日本軍人のゼロ戦パイロットがいます。
名前は水戸出身の「杉浦茂峰少尉」といいます。

杉浦少尉が祀られているのが飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびょう)で、台南市のから北西へ5キロほど離れた場所にあります。

飛虎」とは戦闘機のことを指し、「将軍」とは神格化された勇士の尊称です。
ではなぜ日本人のパイロットが台湾で神様になったのでしょうか。

杉浦少尉は第二次世界大戦中、台南上空でアメリカ軍の航空機との空中戦で被弾し、尾翼部から出火しました。
すぐさま落下傘で脱出すれば命は助かる状況でしたが、眼下を見れば集落が広がっているのが見えます。

そのまま戦闘機が墜落すれば村人に大きな被害が出ることになります。
そのため炎上しながらも杉浦少尉は操縦桿を握り続け、集落を避けるように機首を上げ、飛び去っていったといいます。

集落の安全を見届け落下傘で脱出しましたがアメリカ軍の戦闘機の機銃掃射を浴び20歳で戦死してしまいます。
機体は無残な形で畑の中に落ちていて、その傍らに若き飛行士の遺体がありました。

軍靴には「杉浦」と書かれていてこの飛行士が「杉浦茂峰」と判明しました。
自分の命を優先し、すぐさま脱出していれば戦死することはなかったでしょう。

その惨劇の様子を一部始終見ていた村民たちは自分の命と引換えに集落を救ったゼロ戦パイロットのことを終戦後も忘れることはありませんでした。

終戦後しばらくすると村のあちこちで不思議な夢を見たという話しが広がります。
白い帽子と服を着た日本の若い海軍軍人が枕元に立っているという夢を見たという者が何人も現れたのです。

そこで人々はその兵士とは集落に墜落することを回避し、絶命した杉浦氏に違いないと判断したのです。
すでに終戦から20年以上という歳月を経ていたが、杉浦氏の悲劇は静かに語り継がれていたのです。

1971年、人々は4坪ほどの小さな祠(ほこら)を建て祀ることにしました。
その後、この地域には平穏な日々が続き、人々はこれを集落のために自らの命を捧げた杉浦氏の遺徳と考えたという。
1993年に祠は建て替えられ、現在に至っています。

現在は毎日管理人が朝夕2回、煙草に点火して神像と写真に捧げて、朝には「君が代」、夕方には「海ゆかば」を祝詞として流しています。
この儀式は1993年から毎日欠かさずに行なわれています。

集落を守るために命を落とした兵士は日本人や台湾人という区分を超越し、台湾の地にとどまり人々の暮らしを支える神となったのです。

台湾で土地神として崇められている森川巡査

森川清治郎は1897年、台湾が日本の統治下になったのをきっかけに台湾に渡り、南西部の台南州(今 の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務することになりました。

森川巡査は、村内の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、私費を投じて、日本から教材を取り寄せ、教師を雇い寺子屋を開き、識字率の向上に貢献しました。

また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、薬や医者の手配まで世話をした。

ある年、総督府は漁業税を制定しました。
貧しい村びとたちは、税の軽減をお願いできないかと森川巡査に嘆願しました。
納税は国民の義務だが、村びとたちの貧苦を誰よりも知っている森川巡査は、上層部にかけあうことを約束しました。

そして税の減免を支庁長に嘆願したのですが、逆に森川巡査が村人の納税拒否を扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまいます。

村民のために尽力してきた森田巡査にとって、村民との約束を守れなかったことに責任を感じ、翌朝自ら銃の引き金を引いて自決してしまったのです。

銃声を聞いて駆けつけた村民たちは、変わり果てた巡査の姿を見て、嘆き悲しみ、村の共同墓地に弔うことにしました。

享年42歳。「疑われては弁解の術もない、覚悟する」と書き留められた紙が一枚、ポケットに入っていました。

それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行した時、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生ものに注意せよ」と告げたのです。
村民にその注意を守らせると、伝染病は見事におさまったのです。

村の中心にあるは、森川巡査が亡くなった後に死後も自分たちを護ってくれていると感謝し、巡査を慕う地元の人々により富安宮が建てられ、巡査は土地神として祀られています。

この「日本人の神様」は、今でも「観音様、媽祖様、義愛公様」と、人々の信仰を集めていて、毎日のように観光バスが押し寄せ、多くの台湾人が富安宮を訪れています。

台湾教育の基礎を築いた「六氏先生」

明治28年、台湾を統治し始めた日本政府は、まずインフラの整備に取り組み、鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や農林水産業の近代化などの政策を推し進めました。

同時に重視されたのが、教育でその指導のため当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り台北の北方に芝山巌学堂を開きました。

当時は、日本への割譲に反対する抗日勢力がありゲリラ活動を続けていました。
その年の暮れになると暴動が頻発し、治安が悪化します。

心配した村の人々は彼らに避難を勧めましたがそれでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国 難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、死をも覚悟してその場に残りました。

翌明治29年元旦、伊沢と山田耕造が日本に一時帰国した時に悲劇が起こりました。
元旦の拝賀式に出席するため、芝山巌を出た6人の一行に約100人の抗日ゲリラが襲い掛かかったのです。

教育の意義を説き理解を促したが聞き入れられずに惨殺され、全員非業の死を遂げます。
身に危険が及んでも武器を取ることなく信念を貫いた彼らを、台湾の人たちは手厚く葬り、墓を建てました。

彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになったのです。

この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年(昭和18年)頃には70%にもなった。
また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。

「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精 神」は、その後、長く台湾教育の指針とされ、毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称されています。

不毛の大地を穀物の宝庫に変えた八田與一

日本統治下に日本政府は台湾のインフラ整備をしたのですが、そのうちの1つが治水工事です。台湾に多くのダムを建設したうちの1つが烏山頭ダムです。

嘉南平野は台湾南部に広がる最大の平原で、香川県ほどの面積があり、台湾の全耕作地面積の6分の1を占めています。
しかし雨期になると集中豪雨のたびに河水が氾濫し、乾期には旱魃に襲われる為、農作物がほとんど育たない不毛の地であった。

八田與一は大正9年から十年の歳月をかけて、上流の烏山頭で大規模なダムを造り、平野部に1万6千kmもの給排水路を張り巡らすという、東洋最大の規模を誇ったダムを完成させました。
その結果、不毛の大地を台湾一の穀物の宝庫に変えることに成功したのです。

このダムを建てた八田與一は嘉南の農民から神のように慕われ、命日が来る度に欠かさず墓前追悼式が執り行われ、教科書に載るほど尊敬されています。
100年近くたった今日でも桃園台地を潤し、そこに住む人々に多くの恩恵を与え続けています。

第二次世界大戦下には、金属供出を求められた際、住民はこの銅像を隠していました。
また、日本が敗戦した後に中国国民党政府が台湾に入ってきた時に、政府は日本人の銅像などを撤去する命令を出しましたが、住民は拒否し、銅像は密かに隠され保存され守り続けられていたのです。
1990年代に台湾の民主化が進み、八田與一の業績が再評価され、住民の手により再び公開されるようになりました。

八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して2011年に「八田與一記念公園」が建設され、完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗が参加した

台湾で尊敬されている日本人は多くいますが、その中の代表格が八田與一です。

他の国を統治するということについては様々な意見がありますが、台湾においては台湾社会の基礎はほとんど日本統治時代に建設されたとして評価すべきところは素直に伝えられ、感謝されています。

台湾人が日本統治を評価する場合、特に教育面を必ず取り上げて評価しています。

李登輝前総統は次のように述べています。
私の人生に一番大きな影響を与えたのは日本時代の教育だった。
『武士道』を書いた新渡戸稲造は台湾で製糖業の指導をしていたが、その頃の新渡戸の講義や若い時に受けた日本教育、人間はいかにして生きるべきかといった問題をあの時代に体得できたことを誇りにしているし、個人的に非常に感謝している」と回顧する。
と述べている。

同じことをしても台湾は感謝、韓国は恨む

同じように日本が併合した国に韓国があります。
韓国は35年間日本の統治下に置かれました。日本は台湾と同じようにインフラを整備し、心血を注ぎ教育にも力を入れました。

ロシア帝国が領土の拡大を目指して南方へ進出する動きを考えれば大陸から日本に向けて突き出されたナイフのような形状をしている朝鮮半島は、日本の安全保障における要であるため地政学的には台湾よりも重要視していたはずです。

ロシアに支配されないためにも朝鮮半島に国力をつけてもらう必要があったからです。

併合時のインフラ投資や開発は日本側の「持ち出し」それなのに台湾の多くの人々がそれをごく温かく受け止める一方逆に、韓国はなぜ日本を恨むのでしょうか。

その理由は韓国の初代大統領になった李承晩が反日教育を始めたことから始まります。
李承晩は政権の方針に反対する勢力を壊滅させるために同じ自国の民を100万人以上虐殺し、粛清しています。

李承晩は政権を維持するために批判的な者を北朝鮮に内通するスパイとしてブラックリストを作り片っ端から処刑したのです。
この出来事は「済州島四・三事件」や「保導連盟事件」と言われ、その犠牲者数は100万人以上ともいわれている。

そこでこの事実から国民の目をそらすためと、また日本を徹底的な悪者にすることで人民の不満をそちらに向かわせて民衆をまとめ上げて行く手法を取ることにしました。

そのため「日韓併合時代は植民地として国民は搾取され、ひどい目にあった」という徹底した歴史捏造教育・反日教育を始めました。

この反日政策は政権が変わる度に支持率が落ちると必ず使われ、歴史を歪曲し日本の非道さが雪だるま式に膨れ上がっていき現在に至ります。

その結果、日本にの植民地支配による収奪説、慰安婦問題、徴用工問題などが次々と捏造されてあたかも事実のように学校で教えられています。

韓国を併合したのは35年間、台湾を併合したのは50年間です。
同じ事をして恨まれるなら、台湾の人たちは15年分余計に日本を恨まなければならないはずですが、歴史を歪曲する事なく事実を伝えている台湾の人たちにはありません。

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