日本のちょっといい話

パラオ諸島
パラオで語り継がれるペリリュー島の戦い
日本から南に約3,000km離れた場所に位置する島国「パラオ」
パラオと日本は歴史的にかかわりが深く、世界有数の親日国家と言われていますが、そこには太平洋戦争をめぐる日本軍将兵と島の人たちを結ぶ美しくも悲しい出来事があったのです。
パラオは西太平洋にあたるミクロネシアの島々で構成されエメラルドグリーンが広がる美しい島です。
1885年(明治18年)パラオはスペインの植民地となり、その後国力の落ちていたスペインは450万ドルで1899年にドイツに売却されます。
物と一緒の扱いです。
当時は弱肉強食の時代であり、強い国が弱い国を征服し植民地にすることが当たり前のように行われていました。
列強国である白人が行う植民地政策は住民を奴隷のように扱い、富を搾取するのが目的でした。
その後、第一次世界大戦後、パリ講和条約でパラオは日本の委託統治領になりました。
日本が行った統治の仕方はそれまでとは全く異なり、学校、病院、電気、道路などのインフラ整備を行ったり、特に教育に関しては、日本本土と全く同じ人種差別なき政策を実行したのです。
インフラが次々と整えられれるとともにパラオ人の生活水準も急速に向上していきました。
そうしたことから日本兵とパラオの人々は、共に語り、働き、戦い、手をつなぐ固い信頼と友情が育くまれていました。
そんな折太平洋戦争が起こるとパラオの人たちは自ら志願して日本軍に参加したのです。
やがて戦争末期になると日本の敗戦が濃厚になっていきます。
パラオ本島から南に50キロ離れたところにペリリュー島があります。
小さな島ではあるが米軍にとっては戦略上絶対に欲しい重要な島だったのです。
やがてこの島をめぐり日米の間で激しい戦闘が繰り広げられることになります。

中川州男陸軍大佐
ペリリュー島を守るために中川大佐が率いる1万1千人の日本軍の守備隊が配置されていました。
そしていよいよアメリカ軍が押し寄せてくるという情報が中川大佐の元へ入ります。
しかしその戦力差は戦車10倍・重火器100倍・航空機200倍、総員数5万人という圧倒的戦力差のあるアメリカ軍との差は大きく玉砕覚悟の戦いとなることは見えていました。
ペリリュー島攻略を命じられていたアメリカ第一海兵師団長のウイリアム・ルパータス少将は隊員を前にこう豪語したのです。
みんなに頼みがある、守備隊長中川大佐のサムライサーベルを土産に持ってきてもらいたい。
この戦闘は短期間で終わる、たぶん3日間、あるいは2日間で終わるだろう。
”Theree days maybe two"
アメリカ軍が上陸してくることを聞きつけたパラオの島民が「日本兵と共に戦い自分たちも一緒に死んでいく、自分たちも参加させてください」と中川大佐に申し入れたのです。
それを聞いた中川大佐は一瞬沈黙した後次のように言い放ったのです。
”帝国軍人が貴様らごときと一緒に戦えるか!”
と大声で怒鳴りつけたのです。
パラオ人との悲しい別れ
それを聞いたパラオ人は驚き落胆しました。
日本兵と友情が芽生えていたと信じていたのに、日本人は我々を見下していたのか。
強い悲しみと怒りでこぶしを震わせ、悔しさで涙を流しました。
島民が船に乗って島を去る日、日本兵の姿はありませんでした。
どうしてだ、悔しい思いを乗せて避難船はゆっくりと島を離れていきます。
すると突然誰もいなかった砂浜に日本兵が現れ、共に歌った歌を「元気でいて欲しい」という思いを込め歌って見送ってくれたのです。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長の姿が。
それを見たパラオ人は中川大佐の怒鳴った意味を理解しました。
涙が止まりませんでした。
昭和19年9月15日、アメリカ軍上陸。
アメリカ軍が3日で終わるだろうと思われていた戦闘を日本軍は73日間にも持ちこたえたのです。
大きな戦力差に苦しめられながら、補給も途絶え水も食料もなく飢えの中、愛する祖国と愛する人を守るため1日でも長くと日本兵は戦い続けたのです。
しかし11月24日ついに最後を迎え万歳攻撃で突入しました。
その結果、全員玉砕しペリリュー島での戦いは終わりました。
中川大佐が自決、電文が打たれた。
-サクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る-

両陛下ペリリュー島で祈りを捧げる
このような激しい戦闘の中でも島の人たちから犠牲者は一人も出ませんでした。
戦いが終わりペリリュー島に戻った島民は日本兵の遺体を見て泣きました。
日本兵の遺体を丁寧に葬り、墓地に埋葬してくれたのです。
その墓地は今もきちんと管理が行われ清掃を続けてくれています。
守備隊の抗戦は米軍の予想をはるかに上回る敢闘であり、ペリリュー島神社に建立された碑には米太平洋方面艦隊司令長官ニミッツの言葉が刻まれている。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
――米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ

日本とペリリュー島のために命を捧げた中川大佐
今でもかつて強大な米軍と勇敢に戦い、散っていった日本軍将兵を讃える出来事がパラオで語り次がれています。
こうした経緯を踏まえ、パラオ人の「日本への感謝の気持ち」は子々孫々まで語り継がれていてパラオは世界有数の親日国となっています。
パラオのアンガウル州ではパラオ語と英語に加えて日本語が公用語として制定されています。
またNHKが日本語で放送されていることなど日本文化が今なお根付いています。
パラオの国旗を知っていますか?
日本の国旗と似ているのは気のせいでしょうか。
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