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「ロシアの侵略に思う」日本人が忘れてはならないのソ連の蛮行

2022年3月29日

ヨシフ・スターリン

樺太からの引き上げ船に容赦ない攻撃

太平洋戦争終結に当たり、1945年(昭和20年)8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告および武装解除を行った。

これに対応しイギリス軍やアメリカ軍は即座に戦闘行為を停止した。

しかしソ連は違った。


 

女性と子供ばかりの引き上げ船を魚雷で爆破

ソ連は1945年8月22日北海道留萌沖の海上で樺太からの引揚げ船3隻に対し潜水艦の魚雷攻撃で撃沈させ1,708名の犠牲者を出す蛮行をおこなった。

しかも日本と領土の不可侵などを約束した「日ソ不可侵条約」を結んでいたにも関わらずである。

1、小笠原丸 沈没
ソ連が侵攻してきたため日本が領有していた樺太の大泊港は北海道への疎開船へ乗る人々であふれていた。

優先順位が決められていたため老人、子供、女性ばかり限界ぎりぎりの1,500人を乗せた小笠原丸は稚内で887人を下ろし船は小樽港に向かっていた。

1945年8月22日午前4時20分ごろ、疲れ切って熟睡していた人々は突然体を床や壁にたたきつけられ、何が起きたのかも分からないうちに多くの人が海に投げ出された。

その正体はソ連潜水艦L-12の魚雷攻撃によるものだった。

やがて船体が傾きはじめ、次から次と人が冷たい海に落ちていく。
「助けて!」子供の叫び声や子供の名前を呼ぶ母親の悲鳴が交錯した。

しかもソ連兵は救助するどころかこともあろうに助けを求め波間に浮かぶ子供や女性に対し、浮上した潜水艦から容赦なく機銃掃射を浴びせたのだ。
この残忍な仕打ちを受け生き残ることができたのはわずか61人だけだった。

2、第二号新興丸 大破
小笠原丸の悲劇から約1時間後の午前5時13分頃3,600人を乗せて小樽に向かっていた第二号新興丸が潜水艦の魚雷攻撃を受けた。

船は大破したものの沈没を免れたが、直後に浮上した潜水艦は、甲板にいた人々に銃撃を加え甲板はたちまち血の海になった。

第二号新興丸は砲塔や機銃を備えていたため必死に応戦し、何とか留萌港にたどりつくことができた。
それでも死者・不明者は計400人に達した。

3、 泰東丸 沈没
同日780人を乗せた泰東丸は2隻が攻撃を受けた現場海域に差し掛かり異様な光景を目の当たりにすることになる。
海上に浮かぶ浮遊物の中には、リュックサックや子供用の水筒なども混ざり多数の遺体も浮かんでいた。

第二号新興丸の悲劇など知る由もない泰東丸の乗客たちは、深刻な不安と恐怖に駆られた。
そしてその不安が現実のものとなる。

22日の午前10時ころ目の前に突如潜水艦が浮上してきて激しい砲撃をうけた。

白旗を提示した船舶への攻撃は国際法で禁じられているはずなのですぐに船を停止させテーブルクロスを白旗にして戦う意思のないことを示したが、お構いなしに数十発の砲弾が撃ち込まれ船腹に穴があいた泰東丸はやがて沈没した。

三船遭難慰霊之碑

乗船していた780人のうち、生存者は113人だけだったという。

シベリア抑留

第二次世界大戦の終戦後、満州や朝鮮半島の日本領へ侵攻を開始し、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じた。

ソ連軍に降伏した日本人の多くは、「国に返す」と言われて貨物車に乗せられた。

しかしその行き先は日本ではなく、シベリアの強制収容所だったのです。

マイナス30度にもなる極寒地で、彼らは十分な食事も与えられず栄養失調に陥る者が続出した。

固い黒パンやわずかに塩味のついたお粥、スープなど粗末なもので、過酷な労働を強いられている人にとってはとても足りるものではなく、抑留者の数は約 57万5000人とされ、うち約 5万5000人が死亡している。

引き揚げ女性襲う絶望 暴行、望まぬ妊娠に救いの手

財産を略奪された挙句、生き残った男は奴隷としてシベリアへ、女性はソ連兵による凌辱を受け、妊娠や性病感染を強いられこれを苦にして自殺する者が出た。

そんな絶望の中、引き上げ船に乗りやっとの思いで博多港へ着いた女性たちに救いの手を差し伸べた施設があった。

福岡県筑紫野市にひそかに設けられた二日市保養所だ。
ここでは当時、違法だった中絶手術が超法規的措置として行われた。

麻酔薬が不足していたため、麻酔無しの手術が行われ死者も少なからず出た。

二日市保養所の存在は秘密の中絶施設として開設されたため長い間秘密のベールに包まれていた。
中絶された胎児は、保養所の桜の木の下に埋められ今も供養が行われている。


ロシア軍の残忍さは今も変わっていなかった。

北方領土を不法に占拠

第二次世界大戦の末期、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明したあとにソ連軍が北方四島に侵攻し、ソ連が崩壊してロシアとなった現在もなお、北方四島を不法に占拠し続けている。

樺太に8月11日に約35,000人のソ連兵が北緯50度の国境を越えて侵攻。

8月18日には占守島に上陸し、約25,000人の日本守備隊と交戦。
その後も南下を続け、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまでおよび、9月5日までに北方四島をことごとく不法に占領した。

北方領土返還交渉はロシアの詐欺だった

ロシアの一方的な軍事進攻に関して日本政府が取った制裁措置決定に対する対抗措置について(21日)ロシア外務省が声明を出した。

それによるとメドベージェフ元ロシア大統領が「北方領土に関して、交渉はずっと儀式的なものに過ぎなかった」と発言。
最初から返還する気など毛頭なくいわば形だけのものであり、金が目当ての茶番劇であったことが分かった。

この詐欺行為に関して日本政府は経済支援策として3,000億円を支払っている。
人道など歯牙にもかけず、いざとなれば約束など紙切れ同然、このようなやり方がロシアだ。

「目的を達成するためには手段は選ばない」このようやり方を見ると、ソ連時代と変わっておらず過去に日本が受けた蛮行を思い出さずにはいられない。

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