その他

軍部の命令を無視し2万人のユダヤ人を救い、日本を守った樋口季一郎

2021年8月20日


日本のちょっといい話

樋口季一郎陸軍中将

軍部の命令を無視し、ユダヤ人の命を救う決断を下す

樋口季一郎は陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、対ソ連を専門とする情報将校として、ウラジオストクやポーランドに駐在し、「インテリジェンス」の最前線で情報収集などに尽力しました。

1937(昭和12年)には満州のハルビン特務機関長に就任します。
特務機関長に抜擢されたのは樋口が49歳の時、日中戦争が勃発した直後のときである。

1938(昭和13年)3月8日、樋口は満州国との国境にあるソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が現れたとの報告を受けました。
ナチスの迫害から逃れてきた大勢のユダヤ人が吹雪の中で立ち往生し、飢餓と寒さで死者が続出しているという。

彼らは満州国に助けを求めたが受け入れられませんでした。
当時満州国はドイツと友好関係を保っていたため入国を許否していたからです。

人道的には助けたいが日本とドイツとの関係を考えたとき軍部から批判を受け失脚させられるかもしれない。
樋口は悩みましたが決断は早かった。

ナチスによるユダヤ人迫害の惨状を知っていた樋口は

「軍を追放されても仕方ない、人道上正しいことをしよう」

と、決断した樋口の行動は早かった。
満鉄本社の松岡総裁に連絡を取り、満州鉄道にユダヤ人救出のための特別列車を出すことを取り付けたのです。

こうして確保したこの移動ルートは「樋口ルート」と呼ばれ1941(昭和16年)頃まで使われ、2万人以上のユダヤ人難民を救ったと言われています。

こうした樋口のとった行動に対してドイツ外務省から日本政府に対して抗議が入ります。
陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まり関東軍司令部から出頭命令が来ました。

司令部に出頭した樋口は関東軍参謀長東条英機中将(当時)と面会し次のように問いました。

「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と。

これを聞いた東条は「当然の人道上の配慮」として、樋口を不問に付したのです。
ドイツからの再三にわたる抗議にたいして、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したのです。

時が流れ、太平洋戦争勃発翌年の1942(昭和17年)8月、樋口は北部軍司令官として札幌市に赴任することになり、今度は北海道をソ連の侵攻から守り抜くことになります。


北海道を守り抜いた占守島の戦い

1945(昭和20年)戦局は日本にとって益々厳しい状況になり、8月15日に終戦を迎えることになります。

8月16日、大本営は各方面軍に対し、止むを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為を停止する命令を下しました。
さらに、自衛のための戦闘行動も、8月18日午後4時までと期限付きの命令が出されました。

軍の命令は絶対です。
樋口は指揮官として、部下にこの命令を伝えたのですが、しかし、ソ連が侵攻してくる可能性は高いと読んでいました。

当時、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んでいたため本来であれば日本に攻め込んでくるはずはないのですが、8月18日早朝、ソ連軍が相互不可侵条約を破り占守島へ攻め込んできたのです。
やはり樋口の思惑は的中しました。

樋口は対ソ連における陸軍随一のインテリジェンス士官としてソ連の野望を見抜いていたのです。

ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」にしたのです。
その知らせを聞いた樋口は大本営の停戦命令に背くことを覚悟して、現地の部隊に次のように連絡しました。

「断固、反撃に転じ、ソ連軍を粉砕せよ」

一時は終戦の報を聞いて、「故郷に帰ったら何をしようか」などと笑みを見せながら話し合っていた兵士たちは再び銃を取ることになります。

そして兵士たちは祖国と愛する家族を守るために再び銃を取り、ソ連の侵攻を抑え北海道を、そして日本を守ったのです。
この戦いにおける日本側の死傷者はおよそ600人に及び、対するソ連側の死傷者は4千人にも及んだのです。

この戦いで、日本軍は武装解除した後、多くの日本兵がシベリアに抑留されました。

この占守島の戦いがなければ、北海道はソ連によって奪われ、日本がドイツや朝鮮半島のような分断国家となっていたでしょう。
小さな孤島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘だったのです。

樋口を戦犯にしたい、ソ連

ソ連からしてみればソ連軍に多大な被害を与えた樋口は憎むべき相手であった。

戦後、ソ連は、樋口に対し戦犯引き渡しを要求してきます。
しかし敗戦後日本を占領統治していたマッカーサー将軍は引き渡しをきっぱり許否したのです。

その背後には樋口ルートで命を救われたユダヤ人たちの働きがあったのです。
世界ユダヤ協会が、ソ連の要求を拒否するよう、アメリカ国防総省に訴え働きかけたのです。
結果、樋口に対する戦犯引き渡し要求は立ち消えになりシベリア送りを免れました。

樋口ルートで命を救われたユダ人達が今こそ恩を返すときだということで今度は樋口の窮地を救ったのです。

命令違反を犯した樋口の決断が日本国を守ったのです。
この樋口の功績は多くの日本人に伝えるべきだがほとんどの日本人は知りません。
歴史から消されてしまったのです。

イスラエルでは建国に当たり、国家の建設と民族の幸福に功労があった人を永遠に讃えるための「黄金の碑」に
「偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口」
の文字が、上から4番目に刻まれ讃えられています。

命のビザを発給して6,000人のユダヤ人の命を救った外交官の杉原千畝といい、陸軍中将の樋口といい、多くの功績を残した日本人がたくさんいたのですがなぜか伝えられることはありません。

戦後「日本軍=悪」という偏向された教育で歪められてしまった近現代史、このような歴史教育が日本人にとって本当によいのでしょうか。

"日本のちょっといい話" 記事一覧

続きを見る

-その他

© 2024 HONTOBAKO