韓国・北朝鮮関連

「日本の大失敗!」朝鮮を併合して日本が行ったひどい事

2022年3月19日

日本が韓国を植民地化してあらゆる物を搾取してひどいことをした国なのだから、未来永劫謝れ、その恨みは千年たっても忘れない、と言っています。

ではどんなひどいことをしたのか一つずつ見ていきましょう。

その前に併合前の韓国(李氏朝鮮)はどんな国だったのか理解しておきましょう。

当時の朝鮮は、混乱し、国としての体さえなしていない状態であり、崩壊寸前でした。
防衛力もなく、財政は破綻し、国造りの面で非常にたち遅れていました。

100校しかなかった学校を5000校にも増やしてしまった

韓国を併合した当時は100校にも満たなかった学校を30年かけて5000校以上にも増やしてしまった。

その結果、韓国は併合前、総人口の10%しかなかった就学率が昭和18年には60%にまで達している。

日本統治以前の李氏朝鮮において、教育を受けられたのは「両班」といわれる支配階級の子弟だけだっため、識字率も10%以下しかなかった。

頼まれてもいないのに教育制度を導入し、外で自由に遊んでいたかったかもしれない子供たちの自由を奪ってしまった。

勉強なんてしたくなかっただろうに、日本はなんてひどいことをしてしまったんだろう。

ハゲ山だらけだった土地を緑豊かな土地にしてしまった

併合前に統治をしていた李王朝が財政が破綻したため農民に森を開放し、好きなように伐採させ、土地の使用料を徴収する政策を取りました。

しかし計画的な植林などの計画は毛頭なく金が入ればよかったようで、山が荒れようが、災害が起ころうが知ったことではなかったのです。
国土の保全などどうでもよかったようです。

ちょっと雨が降れば大洪水が起こり、多くの命が失われました。
そのため日本政府は地産事業として植林を行うことを決定しました。

造林事業は1911年には、1152万本だった森林がが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めるとおよそ10億本に至ったと報告されています。

韓国人はハゲ山が好きだったのかもしれないのに、頼まれもしないのに緑にしてしまった。

日本は勝手になんてひどいことをしてしまったんだろう。

両班を廃止して奴隷制度をなくしてしまった

朝鮮の階級制度は、最上位に特権階級である両班、その下に普通の人である中人、その下に常人(小作人)、その下に賤民(奴婢、白丁)がいる形となっていました。
賤民は奴隷階級であり、品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象となっていました。

また両班は自分たちの食べるものがなくなると農民のところへ取り立てに行きました。
出さなければムチを打ち容赦なく取り立てたてたため、農民は自分たちの食べる穀物がなくなり木の皮や根を食べて飢えをしのぐしかありませんでした。

日本政府はこの身分制度を廃止しました。
労働は卑しい者がすることという考えの元、両班は働くことが大嫌いで労働を蔑視し、国家と民衆を食い物にしていました。

働かなくても食べていけていたのに日本の統治のおかげで、その特権がはく奪されてしまった両班にとっては不快この上なかったでしょう。

奴隷制度がなくなるのは良いことだが、働かなくても食べていけるという特権階級になんてひどいことをしてしまったのだろう。
これは両班には恨まれる。

コメの収穫量を3倍にしてしまった

併合前の朝鮮稲作は非常に遅れていた。
特に灌漑施設が不十分で、殆ど雨水だのみの状態だった。

李朝時代の朝鮮では、3 月から 6 月までが食糧が不足する飢餓の時期に当たり、この季節を迎えると総人口の 6 割が山野で草根樹皮 を採取して生命をつなぐ状態であった。

さらに、両班にむしばまれ、小作農は大 なり小なり慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいました
干上がった土地を潤すには水利事業が必要でありそのため、米増殖計画を日本政府が立てて大規模灌漑施設の工事を進めたことにより、米の収穫量が3倍増になった。

韓国人は樹皮や雑穀が好きだったかもしれないのに、頼まれもしないのに勝手に嗜好品を変えるなんて日本はなんてひどいことをしてしまったんだろう。

ハングル文字を普及させてしまった

15世紀に李氏朝鮮四代国王である世宗がハングルをつくりましたが、漢字を権威として使っていた両班の抵抗で普及しませんでした。
清国の属国であった朝鮮では長らく漢字が重んじられ、朝鮮オリジナルの言葉が失われていました。

(画) (図) (台) (体) (塩) (麦) (亀)

左のような難解な漢字を何万字も覚えなくてはならないため、文字が庶民に普及せず、社会の発展が阻害されていたため朝鮮半島に産業・商業が育たない原因となっていました。

そこで日本政府は漢字という一部の特権階級しか理解できなかった文字から庶民が学び安いハングル文字を普及させることにした。

朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、識字率も併合時の 10% から 飛躍的に伸びました。

文字なんか読みたくなかったかもしれないのに、 日本はなんてひどいことをしてしまったんだろう。。

乳出しチマチョゴリを止めさせてしまった

18 世紀以降、朝鮮の女性向け民族衣装「チマチョゴリ」に変化が起きました。

この頃から「長男を生んだ女性は乳房を露出する」ことが習慣化したのだ。
「乳出しチョ ゴリ」である。 当時の朝鮮の男尊女卑的な思想では「長男を生まない女性に価値はない」との考えが支配的なためかこのような風習が広まったのだ。

当時の朝鮮 の女性はこの衣装を「長男を生んで社会的義務を果たした」として誇りに思っていたのである。

勝手にこんな風習を辞めさせるなんて、日本はなんてことをしてしまったんだろう!!
これは日本の戦犯リストの一番目に乗せるべき政策だ。

日本の失敗その他まとめ

  • 会社が作られるようになって「物々交換」から「貨幣経済」に転換させてしまった。
  • 3800キロ鉄道が引かれて、港が造られて、電気を引いてしまった。
  • ビルを建て病院を作り銀行を作ってしまった。
  • 道路を作り上下水道を整備し家屋内にトイレを作ってしまった。
  • 戸籍を作り名前のなかった女性に名前を付けてしまった。
  • 平均寿命が24歳 だったのを56歳までに伸ばしてしまった
  • 韓国の人口は日韓併合の36年間で倍増にしてしまった。
  • 日本企業による約170の大工場が主要都市の周辺で新規に稼働し、韓国人数十万人を含む新たな雇用を生み出してしまった。
  • 日韓併合以降、日本は韓国に現在の価値で60兆円もつぎ込んで行政の整備、インフラ投資・農業や教育の振興などを行ってしまった。
  • 気がついたらいつの間にか朝鮮半島の民は極貧の状態から大きく改善し、経済発展をしていた。

韓国人は経済発展なんか望んでいなかったのかもしれないに、日本は勝手になんてひどいことをしてしまったんだろう。

併合前、1888年 漢城(ソウル)南大門

日韓併合時、1936年のソウル南大門通り

日本は年国家予算の10%から15%を毎年つぎ込み朝鮮の近代化をすすめました。

日本は韓国を植民地にしたと言ってますが、植民地というのはあくまでも富の搾取が目的です。
日本は、朝鮮を植民地ではなく、拡大された日本の一部と考えていたから、莫大な投資を惜しまなかった。
ですから植民地ではなく併合だったのです。

遅れていた朝鮮半島に近代国家としての基盤を作ったのですが、しかし、このような事実は隠され、学校では「日程の36年」として日本が全ての物を奪い去ったため韓国は貧しくなったと教えられています。

しかし、韓国よりも長く統治して同じようなことをしたのに台湾の人は感謝して、大の親日国になっています。
その理由は日本が行った「功」の部分も「罪」の部分も歴史としてきちんと教えているからなのでしょう。

良かれと思ってするにしても相手を見てしなければ後で痛い思いをするという大きな教訓を学ぶことになりました。

「韓国併合ニ関スル条約」植民地か併合か、真実は

「韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」等の内容を規定した条約文書

大韓帝国の内閣総理大臣李完用の名前や、最後の皇帝純宗の諱である坧の署名が見える。

-邦訳-
皇帝としてこれ以上国を収受できなくなったため、どうにもならなくなったこの国をこの際、統治権を信頼できる日本の天皇陛下に託し、国家の革新を行い、国民の幸福を共有するより外に無くなった。
国民よ、東洋の平和と民生の保全のために、騒乱を起こしてはならない。

この条約に基づき日本は大韓帝国を併合した。

世界的に「『韓国併合ニ関スル条約』は当時の国際法上、合法であった」とするのが多数派である。
違法論は現在では、大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)以外の国では少数派である。

Wikipediaより抜粋

「約束は無効と覚悟せよ」福澤諭吉

慶應義塾大学の創立者で明治の傑出した知識人、福澤諭吉は当時すでに韓国人の気質を見抜いていた。

福沢諭吉は朝鮮の青年を日本に留学もさせていた、しかし彼らは慶応義塾の金庫を壊して金を盗み、遊興にふけった。

諭吉は「支那朝鮮に特別の会釈に及ばず」と、失望感を隠さなかったが、平気で恩をあだで返す彼らの習性に多くの日本人は気づかなかった。

福沢は当初は中国や朝鮮と連帯する可能性を模索していた思想を持っていたがしかし、福沢の希望はことごとく裏切られこう述べている。

背信違約こそが、朝鮮半島の人々の特徴であり、約束が約束として機能しないというのだ。
中国と朝鮮は日本にとっての悪友であり、悪友とは距離を置いて付き合え。

さすが明治の傑出した偉人である。現在の隣国との関係を看破していた。

日韓併合時代、1942年 新興工業都市、興南

日本人と朝鮮人が供にに協力しあいながら働いていた


<div style="padding-bottom: 20px;"></div>

-韓国・北朝鮮関連
-

© 2024 HONTOBAKO