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義のために身命を賭して蒋介石を助け、台湾を救った根本中将

2022年2月5日

日本人のちょっといい話

根本博陸軍中将

義のために身命を賭す

受けた恩義を返すためだけに一切を投げ打ち密航してまで台湾に渡り、蒋介石を助け、台湾を守り抜いたその功績も名声も求めず静かに歴史の闇に埋もれた男がいる。

昭和24年6月九州延岡の海岸から小さな漁船が夜陰にまぎれて静かに離れていった。
船が目指すのは真っ黒な海原の向こうにある台湾、この船に乗っているのは元北支那軍司令官の「根本博中将」であった。

根本中将は、戦時中1944年11月、内蒙古(現在のモンゴル)に駐蒙軍司令官として着任した。
翌昭和20年8月に「終戦」となるが、旧ソ連軍の満州侵攻は終戦後も止まることはなく、その地域在住の日本人約4万人の命が危機に晒されていた。

日ソ中立条約を結んでいたがソ連軍にしてみればそんな約束は紙切れ同然のようなものだ。
根本はソ連兵の残虐性をよく理解していた。

武装解除の命令が出ているためソ連軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、民間人の命を守るのが軍人の務めであるとして、

「理由の如何を問わず、侵入してくるソ連軍は撃破せよ、すべての責任は司令官である俺が取る」

と激を飛ばし市内に突入してきたソ連軍と激しい白兵線を展開し撃退し、日本人居留民4万人を無事に内蒙古から日本へ帰還させた。

根元にはもう一つ大きな仕事が託されていた.
昭和21年8月、根本中将は、最高責任者として中国北支方面の日本軍将兵35万人の復員を無事終わらせることであった。

中国共産党軍(人民解放軍の前身)の攻撃もあり「引揚げ」には10年以上かかると日本政府は予想していたと言われているが、1年弱で完了することができた。
これほど復旧業務がスムーズに進んだその裏には、根本と敵方の総大将でもある蒋介石との固い人間関係による助けがあった。

中国国民党総裁 蒋介石

この時紹介石率いる中国国民党の軍隊と毛沢東が率いる中国共産党の軍隊の間で激しい国内戦争が行われていた。
そんな状況であるにも係わらず蒋介石の中国国民党軍は、日本軍の引き揚げに非常に協力的であり、自国のために使うべき鉄道路線も可能な限り日本軍、日本人居留民の輸送に割り当ててくれた。

蒋介石は「東京振武学校」出身者で、日本陸軍の軍人であったこともあり「今はお互い敵同士であるが、欧米列強の侵略からアジアを守り、平和のためには日中が互いに手を取り合っていかなければならない」との考えを根本中将に伝えていた。

「今後ともに手を取り合えるあなたのような優秀な人物は日本へ即刻帰国したまえ。
日本再建にはあなたの力が必要だ。」

との言葉に根本は男泣きをした。

また昭和18年に開かれたカイロ会談の席上で蒋介石は「日本の戦後の国体は日本国民の自由な意思を尊重すべきである」と発言し、このことが天皇制の存続の道へつながったと言われています。
根本中将はこのような事から

「閣下のために私でお役に立つことがありましたらいつでも馳せ参じます」

と述べ、受けた恩義に対していつか義を持って返すと誓い蒋介石の元を離れます。



蒋介石との再会

喜びの再会

復員後、東京の鶴川村(現在の町田市能ヶ谷)の自宅へ戻ることになります。

GHQ(連合国最高司令官総司令部)による占領下の日本では高級軍人をはじめとした職業軍人は公職追放され、職にも就けず軍人恩給の支払もおぼつかない状況となっていた。
そんため根本は庭先で大根などを植えたりしながら食いつないでいた。

そんな折、中国情勢における国民党の敗北が決定的となり、台湾に逃げ延びていた国民党軍の命運は風前の灯となっているという情報を根本は耳にする。

「このままでは台湾が危ない、蒋介石総統に受けた恩義を返す時が来た」

と決断し根本は釣り竿一本を携え奥さんに「釣りに行ってくる」とだけ言い残してそのまま九州延岡の海岸へ向かった。

根本中将はなぜ釣り竿を持って出かけたのか、その理由は敗戦後の日本はGHQの監視下にあり、中将という軍の幹部であった根本は要注意人物として幽閉されているようなものだった。

近くに釣りに行くのならすぐに帰ってくるだろうと思わせ監視の目を欺いたのです。
そしてそのまま3年間行方不明となってしまいます。

もし日本の元軍人が台湾に渡り、蒋介石に協力するなどということが明るみに出れば大変な国際問題になります。
そのため密航するしか方法がなかったのです。

私財を売り、すべてを投げ打ってでも義を貫くための決断をしたのです。

密航の途中船の故障があり、船は浸水し根本はじめ乗組員全員で水を排水しながら前進します。エンジンは何度か故障し、果たして台湾にたどり着けるのか。一行が諦めかけたその時・・・。

一行の正面に山が見えました。基隆山です。
台湾最北の「基隆」の港に一行はついに到着したのです。

延岡出港から実に14日の日々が経過していました。

またもや苦難、台湾で逮捕交流される

九死に一生を得た根本はやっとの思いで台湾にたどりつくことができたが、不審者と思われ地元の警察に捕らわれてしまいます。

しかし、国民党軍の上級幹部には、日本の陸軍士官学校卒業者が多かったので「戦神」と呼ばれていた根本中将の名前は上層部に広く知れ渡っていた。
その名前を聞いた蒋介石はすぐに釈放を命じ、そして、ついに根本は蒋介石との再会を台湾で果たします。

「閣下をお救いするためにやってまいりました」

根本がこう切り出すと蒋介石は喜び、協力を受け入れました。

蒋介石は部下の湯恩伯に福建省の防備を命じ、根本は湯恩伯の軍事顧問に就任した。
湯恩伯から根本はこう呼ばれた「”根本”顧問閣下」と。

金門島の戦い

根本はこの時から1952年に帰国するまでの間、国民党軍の軍事顧問として多くの作戦指導に当たったが、もっとも効果が大きかったのが、中共軍の金門島(きんもんとう)上陸を阻止した作戦である。

根本の作戦は、一発も反撃せずに全敵軍を上陸させ、内陸部に誘い込み一挙に撃滅するというものであった。
根本のこの作戦は見事に的中し、海と陸から挟撃して共産党軍のおよそ3万人を壊滅させ、その結果共産党の台湾侵攻は挫折した。

この戦いがあったからこそ今でも金門島は台湾の直轄の領土であり、何より台湾の独立が保たれているのです。

こうして根本は台湾を守り、受けた恩義を返したのです。
しかし、旧日本軍人が金門島攻防作戦に関わっていたことが明るみに出ることは台湾にとっても日本にとっても好ましくないとして「自分のことは記憶から抹消するように」と言い残したそうです。

ひっそりと歴史の闇に消える

昭和27年6月25日、羽田空港に台湾からチャーターされた飛行機が着陸し根本が凱旋しました。

タラップを降りてくるその手には日本を出かかる時に持って行った釣り竿が握られていた。
その思いは心配をして待っていた奥さんに「釣りから帰ってきたよ」というつもりだったのでしょう。

根本の帰国に際して蒋介石は一つのプレゼントを送っています。
蒋介石は陶磁器で有名な景徳鎮の職人に命じて3セットの花瓶をつくらせました。

「花瓶は、3組(2つで1組)作られ、皇室とエリザベス2世に送られ、1組は蒋介石が記念にとっておいたそうで、ひとつは蒋介石を記念する台湾・中正紀念堂に、他の一つを、感謝と友情の証として根本に送りました。

こうしてこの激戦に旧日本軍将校が参与していたことはタブーとなり、いまや忘れ去られようとしている。
モンゴルで4万人の命を救い、北支方面では35万人の命を守り、金門島において20万人と台湾本島で1000万人の同胞を守った。

しかし、自らは一切自慢することなく、義を貫き何も言わずにこの世を去った。
これが鍛え上げられた昭和の陸軍士官の姿です。

台湾政府も根本元中将も沈黙を守り続け立ため、その後長く謎に包まれていたが、2009年台湾の国防部が根本元中将の功績を公式に認め、戦後60年以上経って根本元中将の存在が明らかになったのである。

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