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アイヌは本当に先住民族だったのか、アイヌ新法の危うさ

2020年3月7日

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2019年4月19日に歴史的議論が曖昧にされたまま参議院本会議で「アイヌ新法」が可決し成立した。
アイヌ民族の地位向上などを目指して「先住民族」と初めて明記したが、しかし、そもそもアイヌは本当に先住民族なのだろうかという疑問が残ります。
それを示す興味深い資料が4点ほどあります。


遺跡発掘調査から分かった事

下の表は2016年に札幌市教育委員会が札幌市東区丘珠町の「丘珠縄文遺跡」を発掘調査して年表にしたものです。

アイヌ

札幌市教育委員会「丘珠縄文遺跡」発掘調査 (PDFファイル)より

遺跡調査の結果、判明したことは800年前に突然アイヌ文化が出現し、いくら発掘調査をしてもその前にはアイヌが北海道で先住していた痕跡が全く見つからないという結果になりました。

アイヌは縄文時代から北海道に住んでいて本州の和人と交流を持ったという先入観がありますが、現在判明しているのは、アイヌが北海道に住み始めたのは時代区分では鎌倉時代に当たり1200年頃からなのです。

また他の学術的文献資料を見てもそれ以前にアイヌが北海道に先住していたと明記されているものはありません。

それ以前のアイヌの痕跡をたどることは出来ないのです。

つまり、800年前に以下のように生活様式の全く異なる民族が突然出現したのことになります。

 

民族博物館の質問コーナーにおける回答の矛盾

国立アイヌ民族博物館のホームページに「よくある質問」コーナーがありその中に


質問 アイヌ民族はどのような歴史を歩んできましたか?

回答 アイヌ民族の歴史のはじまりは、北海道に人類がやってきた3万年前頃にまで遡ることができます。7世紀頃から、これまでの狩猟採集や漁撈に雑穀農耕が加わり、海を越える交易を盛んにおこなう特色ある文化が形成されていきます。

アイヌの歴史は3万年前頃にまで遡るとあるが発掘調査の結果でもわかる通り、アイヌ文化の発祥はおよそ800年前とされている。

質問 どうして展示資料は「古い」資料ばかりではないのでしょうか?

回答 現存する資料が限られており、すでにその製作技術等が現代のアイヌ民族に伝わっていないこともあります。そうした資料をアイヌ民族自身が調査、研究し、復元資料を製作して、博物館の展示に活用しています。

と回答しています。
なぜ現存している物が少ないのか、技術が伝わっていないから残っていないと説明されているが、3万年も前から定着しているのであれば発掘調査をすれば何かしら出土するはずである。

それともアイヌは自分が死を迎えるときには身の周りの物をすべて焼却して痕跡を残さないようにしてから旅立つという習慣でもあったというのでしょうか。

国立アイヌ民族博物館 よくある質問コーナーより

 

突然の文化様式の変化

①住居様式の変化
縄文文化から擦文文化までは、かまどのある「竪穴式住居」に住んでいたのです。
竪穴式住居は縄文時代に作られたものでその起源は1万年前に遡ります。
しかし、アイヌ文化の担い手たちは「掘立柱建物」に住んでいました。
1万年以上も続いていた住居様式が800年前に突然変わったことになります。

②土器から鉄器へ

縄文文化から擦文文化までは食料の調理や、祭祀目的のため土器を使用していたがアイヌ文化においては鉄鍋を使うようになり土から鉄へ突然変化している。

③言語
アイヌ語は日本語と文法も全く異なり、通訳がいなければ理解できないような言語です。
アイヌが繩文遺伝子を引き継いでいるのならばアイヌ語が全く日本語に繋がらないのは謎である。

文化における変化は通常は段階的にスムーズに行われるものですがアイヌ文化の出現は突然どこからかワープしてきたかのように見えます。

この謎を解く鍵となる記述がWikipedia「モンゴルの樺太侵攻」にありました。

 

モンゴルの樺太侵攻

Wikipediaモンゴルの樺太侵攻より引用

元朝によるアイヌ攻撃
「吉里迷」(ギレミ)という民がアムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた。
ギレミはモンゴル建国の功臣ムカリの子孫であるシデの遠征により1263年にモンゴルに服従した。

ギレミの民は、「骨嵬」(クイ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。
この訴えを受け、1264年に元朝は骨嵬を攻撃した。

「元朝」はモンゴル帝国のことであり、「骨嵬」(クイ)はアイヌのことです。

1285年)にも元朝は征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・兀魯帯(ウロタイ)に命じて兵力1万人で骨嵬(アイヌ)を攻撃させた。

さらにその翌年(1286年)にも3年続けてアイヌ攻撃が行われた。このときの侵攻では「兵万人・船千艘」を動員したとされ、前年もほぼ同様の規模であったという。

要約するとアイヌはアムール川河口や樺太に居住していて、モンゴルに服属していた民族を何度も攻撃し、略奪を繰り返したためその民族がモンゴルに訴え、アイヌはモンゴルの攻撃を受け樺太から追われたといいうことです。

つまり1264年のモンゴルによる攻撃の以前からアムール川河口や樺太にアイヌが存在していたと言うことになります。

 

DNA鑑定によるオホーツク人とアイヌ人の共通性

2009年の6月18日に北海道新聞に興味深い記事が掲載された。

北大の研究グループが5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功したとのことです。

その記事によるとニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っている「ハプログループY遺伝子」がオホーツク人にもあることが判明したと書かれています。

過去の調査でアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどない「ハプログループY遺伝子」を、20%の比率で持っていることがわかっているためアイヌ民族との共通性が判明したと紹介されている。

 

仮説を立てるとスッキリ

これまでの事例を元にここで一つの仮説を立ててみましょう。

  • アイヌはオホーツク海沿岸や樺太に居住していた。
  • モンゴルの攻撃を受け北海道に逃れてきた。
  • 狩猟民族のアイヌの圧力により先住していた擦文人たちは徐々に居住地を追われた。

狩猟民族であったアイヌはトリカブトの毒を矢じりに塗る毒矢を使ったため擦文人より武力に勝り北海道で勢力を拡大した。
このように仮説を建てると800年前に突然出現したこと、生活文化の突然の変化、全く異なる言語の出現などこれまでモヤモヤしていた疑問がスッキリと解決します。

和人が先住民族のアイヌから北海道の土地を奪ったとされていますが、それ以前から住んでいた擦文人を侵略し、居住区を奪ったのはアイヌということになります。

 

アイヌ新法の問題点

アイヌの起源は諸説あり未だにはっきりしていない。

アイヌ新法の成立でアイヌが先住民族と認められたわけですが、その前に定住していた人の存在はどうなるのでしょうか。

さまざまな問題があるにも関わらず国会ではほとんど議論されることなく、全会一致で可決されています。
おそらく国会議員の多くが決議の内容を理解しないまま賛成したのではないでしょうか。

少なくとも研究結果が確定するまでは法的に先住民と認定すべきではないはずなのだが。

やがて日本民族との混血が進み、すでに民族としてのアイヌ人は消滅しています。
現在は「アイヌ系日本人」の中にDNAとしてのみ残っているだけです。

先住民族かどうかはっきりしないまま先住民族と国が性急に認めたのはなぜなのでしょう。
その背景には「在日特権」や「同和利権」のようにアイヌ利権を生み出そうとしている勢力があるからなのです。

アイヌ新法というアイヌ優遇政策(交付金制度)が国会で決議されたことにより、このまま進めば将来的に何兆円という税金が不正に使われる可能性があります。

2020年7月12日にに北海道白老町に整備が進められている「民族共生象徴空間(ウポポイ)」がオープンしました。
ポロト湖畔の約10ヘクタールの敷地に総事業費として200億円が投じられています。

かって確かに北海道にアイヌ民族はいたが、いなくなったのです。
純粋なアイヌ民族はすでに消滅したのです。
いなくなった民族の文化を復興させるためにこれだけ巨額の公費を投入する必要があるのだろうか。

ウポポイはほんの一例でアイヌ新法には他に様々の問題が含まれています。

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