日本のちょっといい話
中世パリのトイレ事情
中世ヨーロッパの衛生環境はお世辞にも良いとは言えませんでした。
花の都パリに下水が完備され、し尿処理が行われるようになったのは1880年代になってからです。
それまでは一般家庭にトイレはなく、あるのは「オマル」でした。
使えばやがていっぱいになり、捨てねばなりません。
貯まった汚物は「水に気をつけろ~」と叫びながらなんと窓から公道に捨てていたのです。
下を通る人は危険です。
そこで紳士淑女のために落ちてくる危険物から身を守るために考案された物があります。
男性は頭を守るための「シルクハット」、体全体を覆う「マント」、そして道に落ちている汚物を払うための「ステッキ」が考案されました。
女性には「日傘」が、また汚物を足裏全体で踏まないように「ハイヒール」が考案されました。
ではベルサイユ宮殿のトイレ事情はどうだったのでしょうか。
王や王妃専用の立派なトイレはありましたがそれ以外はありません。
ヨーロッパ諸国の貴族社会では夜ごと、着飾った伊達男と貴婦人たちの舞踏会が繰り広げられていました。
大勢の人が集まるのですから当然トイレは足りません。そのため宮殿を訪れる貴族たちは自分たち専用の携帯の「オマル」を持参していました。
用を足すのに紳士淑女達はそこらへん、つまり庭やなんと部屋や廊下の隅っこで”なさっていた”のです。
淑女たちのスカートは裾が大きく膨らんだ「フープ・スカート」をはいていましたが、これが用を足すのに役立ちます。
そのために考案されたといってもいいでしょう。
そして、使用した「オマル」の中身の処理であるが、なんと宮殿の庭にそのまま捨てられていたという。
時には窓からポイと捨てていた。
これを夜ごと行われる舞踏会ごとに繰り返していたのだから宮殿自体が悪臭に包まれます。
かくして、ヴェルサイユ宮殿での舞踏会はいつも鼻が曲がるような臭いの中で行われていたのです。
またベルサイユ宮殿には大理石の立派なお風呂があったのですが、誤った医学知識が広がったためか入浴は敬遠されていたようです。
とにかくお風呂に入らない。
そのため香水が発達しました。
とても日本人には耐えられそうにありません。
あの華麗な「ベルサイユのばら」のイメージが・・・・
江戸は人口百万人を超える世界最大の都市だった
享保(1716~1736)頃には江戸の人口は100万人を超えたと言われています。
1800年頃、北京の人口が90万、ロンドンが86万、パリが54万と言われていますので、江戸の町は江戸時代中期には世界的に見ても北京やロンドンを超えるほどの人口を抱える大都市だったのです。
参勤交代の制度により街道に宿場が設けられ流通の発達に伴い全国に街道が整えられ、江戸と大坂を結ぶ東海道は18世紀で一番人通りの賑やかな道でした。
しかも女性の一人旅もできるほど治安が良かったのです。
江戸末期に日本旅行した西洋人の記録には「旅館の部屋に鍵がなく、貴重品を置くところも鍵がない。
盗まれるのか不安だったが地方に行き、数週間後に帰ってみるとそのまま荷物が置かれたままだった」という記述が残されています。
日本人は古来より嘘を嫌い、人をだますことを嫌い、いざというときにはお互いに助け合い仲睦まじく暮らしてきた民族なのです。
聖徳太子が十七条憲法の冒頭に掲げた「和をもって貴し(たっとし)となす」と定めた精神はDNAとなって現代の私たちにも脈々と引き継がれているのです。
3.11のような大きな災害に見舞われた時の日本人の秩序を保つ姿に世界は驚きます。
これは誇るべきことではないででしょうか。
世界中の人々が皆日本人のような気質であれば争いごとも、もっと減るのではないでしょうか。
江戸は公衆衛生が発達していた都市だった
また江戸中に飲料用の上水道が整備されていたことは驚きである。
ポンプがない時代に高低差だけを利用して江戸の街全体に網の目のように上水道を張り巡らせるためには高度な測量技術と、土木技術がないと不可能である。
また下水道も同じようにして作られていた。
しかもこの下水に流すのは洗い物などの生活排水のみ流すように定められていて、排水路の上に便所を設置することは禁じられていました。
このようにして疫病が蔓延しないように都市の公衆衛生を保っていました。
糞尿は汲取式にしていて金や野菜と交換して農家の貴重な肥料として使われリサイクルされていたのです。
300年も前にこのような大規模なインフラが整備され、公衆衛生の観念が確立されていたのは驚きである。
1563年に宣教のため日本にやってきたルイス・フロイスが記した日本を紹介する「日本史」の中に以下のような記述があります。
日本人は「昔から清潔好きで、礼儀正しかった」と記されている。
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