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改めて見てみたら実は日本は凄い国だった出来事「11選」

 

「日本の国に誇りを持っていますか」と問われて自信を持って「持っている」と答えられる人は少ないのではないでしょうか。

私達の先人は2000年以上の長きに渡って、独自の文化を築いてきました。
第二次世界大戦の前までは日本人は「誇り」もあれば「気概」も持っていた。

ところが、第二次世界大戦の後、日本人の意識は一変し、卑屈になっていきます。
戦後日本はアメリカを中心とした連合国軍に占領されました。

そして占領軍は日本人の心に戦争の罪の意識を植え付ける「ウォーギルト・インフォメーション・プログラムWGIP)」という政策を行うことにより、日本人から「誇り」を奪い去りました。
この洗脳政策は今でもその影を落とし続けています。

どんな国の人も一応に自国への誇りを持っている中で、こんなに自国への誇りを持てない民族はむしろ珍しいと言えるのではないでしょうか。

私達の先人たちは国を慈しみ、偉大な功績を残しこの日本という国を守り続けて来ました。
今を生きている私たちはその先端に立っているのです。

その先人たちの残した偉業を振り返ることで日本という国、日本人という民族の素晴らしさを再発見できるかもしれません。
そのほんの一部を今回取り上げてみたいと思います。
Photo: undefined by Beni Arnold


日本は独立国だと宣言した聖徳太子の凄さ

西暦607年に聖徳太子が

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す、つつがなきや

としたためた国書を随(中国)の皇帝に出しました。
これを読んだ中国の皇帝は大激怒しました。

皇帝が怒ったのは「天子」という言葉が使われていたからです。
当時強大な力を持つ中国に対して朝鮮半島の百済、森羅、高句麗は皆中国に従属していました。

中国の皇帝が一番偉くて、周りの国は皇帝の家来であり、中国に貢ぎ物をして、そのお返しに自分の国の「王」だと認めて貰っていました。
「天子は」中国の皇帝を指す言葉で世界に一人しか存在しないもののはずです。

太子は中国に対して、「従属はしない、中国と対等な国である」という気概を見せたのです。
しかし、怒らせたままではまずいので、翌年再び中国に以下のような書き出しの手紙を携えて遣唐使を送ります。

東の天皇、つつしみて、西の皇帝にもうす

王と書いては従属関係を認めることになるので太子は「天皇」という言葉を使ったのです。

これからは日本も「皇」という字を使いますよ、日本の王は「天皇」であり中国と対等の立場であると宣言したのです。
つまり日本はどこにも従属しない独立した国であるという意味が「天皇」という言葉に込められていたのです。

その後も遣唐使は続けられたので中国は認めたということになります。
これが日本における「天皇」という名称の始まりとなり現代に続いています。

中国の皇帝を怒らせて攻めて来られたらどうするのだろうと思いますが、正徳太子には勝算があったのです。

当時の高句麗はなかなかの軍事力を持っていて中国も手こずっていました。
日本を敵にしたら高句麗と日本は手を結ぶのではないか、そうなったら厄介なことになると随の皇帝は心配していたのです。

正徳太子は日本の国力と時の情勢を分析して気概を見せることにより、国の独立を認めさせることに成功したのです。
例え相手を怒らせても気概を持って主張を貫徹する交渉力、その根底にあるのは自国への誇りがあればこそなし得たことです。

気概」「交渉力」「誇り今の日本に欠けているものばかりです。

それ依頼、第二次世界大戦(太平洋戦争)後の1945年9月2日から、1952年4月28日まで連合国に占領されていた7年間を除き、日本はずっと独立国を保っています。

江戸は百万人を超える世界最大の都市だった

享保(1716~1736)頃には江戸の人口は100万人を超えたと言われています。

1800年頃、北京の人口が90万、ロンドンが86万、パリが54万と言われていますので、江戸の町は江戸時代中期には世界的に見ても北京やロンドンを超えるほどの人口を抱える大都市だったのです。

参勤交代の制度により街道に宿場が設けられ流通の発達に伴い全国に街道が整えられ、江戸と大坂を結ぶ東海道は18世紀で一番人通りの賑やかな道でした。

江戸は世界に誇る衛生都市だった

また江戸中に飲料用の上水道が整備されていたことは驚きである。

ポンプがない時代に高低差だけを利用して江戸の街全体に網の目のように上水道を張り巡らせるためには高度な測量技術と、土木技術がないと不可能である。
また下水道も同じようにして作られていた。

しかもこの下水に流すのは洗い物などの生活排水のみ流すように定められていて、排水路の上に便所を設置することは禁じられていました。
このようにして疫病が蔓延しないように都市の公衆衛生を保っっていました。

糞尿は汲取式にしていて金や野菜と交換して農家の貴重な肥料として使われリサイクルされていたのです。
300年も前にこのような大規模なインフラが整備され、リサイクルの観念が確率していたのは驚きである。

なんと中世ヨーロッパでは窓から排泄物が投げ捨てられていたのです。
ヴェルサイユ宮殿は中庭や通路、回廊など糞尿であふれ、ものすごい悪臭だったそうである。

高く積もった汚物を避けるために、「ハイヒール」が発明され、立ったまま廊下や部屋の隅、庭の茂みで用を足しやすいようにとの配慮から「フープスカート」が生まれ、宮殿内のひどい匂いをごまかすため「香水」が発達していった。

江戸の識字率は世界一だった

寺子屋の様子

江戸時代世界一高い教育水準をを誇っていた。
どうして江戸の識字率はそんなに優れていたのでしょうか?
その答えは、寺子屋にありました。庶民が教育を受けるための施設として寺小屋が設けられ、その数は幕末には全国で1万5000~2万軒ほどあった

ちなみに、現在、全国の小学校の学校数が2万校以上だそうなので、ほぼ同数です。
就学率はどれくらいだったかというと、諸説ありますが幕末の江戸では就学率 約80%だったとも言われています。

これは、当時の欧米と比較しても非常に高い就学率だったといわれます

商人にとって、文字を読んだり、描いたり、計算が必要不可欠です。読み書きそろばんができなければ商人になれません。
大工も図面を引くには読み書き計算ができなければ大工にもなれません。

テレビもスマホもなかった時代、新聞の前身に当たる瓦版を読み人々は情報を手に入れていました。
瓦版の売り子のことを、当時は「読売」と呼び街頭で読み上げながら売り歩いていました。

現代のテレビのワイドショー的な存在であった瓦版を買い庶民はニュースを得ていました。
この瓦版が人気であった背景には庶民が文字を読めたからです。
読めなければ買っても意味がありません。
以下に識字率が高かったかという証です。

当時来日した宣教師が「日本人は女、子供まで字が読める」と驚いた記録が残っています。

花開いた元禄文化

庶民を中心に、様々な文化が花開いたこの時代の文化を「元禄文化(1688年 - 1704年)」と言います。

井原西鶴は、「浮世草子」で武士や町民の生活を表し、近松門左衛門は、人形浄瑠璃で、身近な事件を題材にした台本を書き人気となりました。
演劇として発展した歌舞伎では、市川團十郎や坂田藤十郎などの役者が人気を集めました。

松尾芭蕉は、俳句で自身の気持ちや感情を表現し、作品を発表しました
喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川(安藤)広重などが、それぞれの画風で脚光を浴びました

教育の世界では数学が進歩しています。
算聖と呼ばれる「関孝和」の登場です。
関孝和は円周率を求めたり、微分法や積分法なども自ら編み出しました。
世界的に見ても関孝和の数学は最先端であったと考えられています。

このように様々な「庶民が主役」となる文化が大きく花ひらいたのです。

犬がご主人の代わりにお伊勢まいり

大名の参勤交代と流通の発達に伴い街道が整えられ、宿場が設けられ茶店や商店ができそれに伴い、庶民が旅行する機会が増えました。

驚くほど治安がよく女性が一人でも旅をすることも可能でした。

街道が整備されるに連れお伊勢参りや金毘羅参りが庶民の間で盛んに行われるようになり、特にお伊勢参りが大ブームとなり、日本全国から集団で伊勢神宮を参詣したそうです。
しかし、体が弱いなどの事情があって、伊勢神宮に参詣できない人もいました。

そのご主人の代わりに伊勢神宮を参詣したと言われているのが「犬のお伊勢参り」と言われています。
犬が首にお布施を下げて伊勢まで旅をし、目的を果たしたらまた飼い主のところへ戻って行ったというのです。

飼い主が伊勢参りをする旨を書いたものをしめ縄でつけ、道中でかかる路銀を袋に入れ、自分の家の住所を書いたものを首にぶら下げて送り出しました。

それを見た同じ方向に行く旅人が道案内をしてくれたり、旅籠の人がお金をちょっと取って食べ物や水、を与えてくれたり、中には感心な犬だと言うことでお金を袋に入れてくれる人もいました。こうして多くの人の助けを借り、役目を果たし無事に飼い主のもとへ戻ることができたと言うのです。

そんな馬鹿なとお思いでしょうが、たくさんの記録が残っているのです、
それを可能にしたのは江戸時代の人々の温かい心と信仰心の強さがあり、犬であっても目的を持っているなら助け合う、日本人の気質を象徴する出来事です。

こんな国は世界中探しても他にはないでしょう。

これがお隣の国の「C国」や「K国」であったならまたたく間にお金を取られ、犬も食べられていたでしょう。

日清戦争と日露戦争に勝利した凄さ

日清戦争
日清戦争は1864年に朝鮮半島をめぐり日本と清(中国)との間に行われた戦争です。

それまで清は膨大な人口を誇っっていたため「眠れる獅子」と呼ばれ、イギリスやフランスも本気で清に戦争を挑むことは控えていた。
そこに国土でははるかに小さな島国の日本が清を圧倒して勝利したのだから列強国は驚いた。

この勝利により下関で日清講和条約が結ばれそれまで500年以上も清の属国であった朝鮮半島の独立を認めさせ、国号を大韓帝国とすることになったのです。

日露戦争
日露戦争は、1904年2月8日から1905年9月5日にかけて日本とロシア帝国との間で行われた戦争である。

朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされた戦争である。
当時ロシアは日本への圧力を強める為、朝鮮半島への進出を狙い南下政策を進めていた。
そのため朝鮮半島がロシアの支配下に置かれれば、日本の独立も危機的な状況になり、日本の安全保証が脅かされると判断した日本との間で戦闘に至った。

国土比較(ロシア・日本)

国土の大きさから見ても、欧米列強国の誰もが日本はロシアに勝てるわけはないと思っていた予想を覆し、世界最強と言われていたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに叩きのめし、世界海鮮史上に残る一方的な勝利に終わった。

37年前まで鎖国によって西洋文明から隔てられていた極東の小さな島国があの大帝国のロシアに勝利したことに世界が驚いた。

半世紀で列強国の仲間入りを果たした凄さ

当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことで、アメリカやヨーロッパ諸国の日本に対する評価が高まり、日本を見る目が変わった。

それにより、1920年に生まれた世界最初の国際平和機構である「国際連盟」において、常任理事国の4カ国(イギリス、フランス、イタリア、日本)に名を連ねることになり1等国として認められた。

52年前までチョンマゲを結って鎖国をしていた極東の小さな島国が欧米の科学技術をまたたく間に吸収して開国からがずか半世紀で世界に躍り出て列強国の仲間入りを果たしたのだ。

欧米諸国が300年かかった進歩を一気に成し遂げた事実を世界は信じがたい思いで受け止めていた。

しかし、このことは同時に欧米諸国に警戒感をもたらせることになり、特に中国大陸における権益を狙っていたアメリカにとって日本は目障りな存在となり、敵意をあらわにするようになる。
このことが後の太平洋戦争へと繋がっていくことになる。

極東の小さな島国が戦った太平洋戦争

1941年12月7日午前7時55分、日本軍による真珠湾攻撃で、 太平洋戦争のの火蓋が切られた。
第二次大戦のうち、アジア太平洋地域が戦場となった日本と米・英・オランダ・中国など連合国との戦争のことです。

開戦前の時点での日本とアメリカの国力差は、アメリカは日本に対してGNPで10倍 ~20倍、石油生産量で700倍にも及んでいた。
極東の小さな島国である日本がアメリカ1国と比較してもこれだけの国力の差がある連合国と3年9ヶ月もの間戦い続けたのです。

緒戦において日本軍の進撃で香港を始め、マレー半島、マニラ、シンガポール、インドネシア侵攻(ジャワ島占領)、フィリピンをまたたく間に支配下においた。
最終的には負けてしまいますが、初戦は日本軍の連戦連勝だったのです。

植民地支配からアジアを開放した日本

太平洋戦争以前、欧米諸国は発達した技術を武器に多くの有色人種の国々を次々と支配していき、日本は最後に残された狩場であった。

地図を見て見ると分かるが、太平洋戦争以前はアジアの国は日本とタイを除きすべて欧米列強により植民地として支配されていました。

強い国が弱い国を支配する弱肉強食の世界が当たり前の時代でした。

日本はアジアの国とは戦争していません。
戦った相手はフィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアをオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスと戦って欧米諸国をアジアから排斥したのです。

それまでアジアの国の人々は黄色人種は白人には絶対敵わないのだから植民地として支配されるのは仕方のないことだと誰もが諦めていました。

しかし、小柄な黄色人種の日本人が屈強な白人を次々と駆逐していくのを目の辺りにして、白人への劣等感を克服し、後にアジア諸国が独立を達成する大きな原動力になったのです。

残念ながら日本は負けてしまいますが戦後、アジアの人々の独立機運は消えることなく、アジアの国の多くが独立を果たすことになったのです。

ジャワハルラール・ネルー氏
独立後のインド初代首相からのメッセージ

インドは程なく独立する。
その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。
この恩は忘れてはならない。
これはインドだけではない。
インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。
インド国民は、日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。
他の東亜諸民族も同様である。

わずか20年で世界第2位の経済大国になった凄さ

日本は1945年、太平洋戦争に敗れ、200以上の都市が空襲に遭い、主要都市は軒並み焼き尽くされ300万人以上の犠牲を出し、日本は最貧国の1つに数えられる程のダメージを受けた。

何の資源も持たない日本が復興を遂げるには必死で働くしかなく、戦後の日本人はそれをやり遂げた。
1964年には世界初の高速鉄道である新幹線を開業させ、さらにはアジアで初となる五輪も開催するなど急速に復興を遂げ、1968年には米国に次いで世界第2位の経済大国に躍り出た。

最貧国からわずか20年間で世界第2位の経済大国に上り詰めたこの復活に世界は驚愕することになる。

それはまさに「日出る(RISING SUN)国)が再び復興を成し遂げた瞬間であった。

この奇跡的な復興を成し遂げたのはひとえに日本人の勤勉さがあったからである。
さらに日本は昔から教育に力を入れていた国であり、敗戦前から有数の高い技術力と工業力を育組む優秀な人材を育成していたことが大きな要因でもあった。

日本人の民度の高さと精神性の凄さ

2011年に発生した東日本大震災の時の被災者たちの秩序ある行動に世界中が驚いた。
世界中のテレビには、がれきとなった家屋や車をあたかもおもちゃのように津波が押し流し、変わり果てた荒地に放心状態でさまよう被災者の姿が映し出されている。

海外では,多くの場合,大災害後には暴動や略奪が大量発生し,社会が無秩序化するのが当たり前である.
そのような状態の中でも秩序正しく整然と行動する人々の民度の高さに海外の人々は驚嘆しました。

震災時でもパニックや暴動、略奪などが起こらないこと。また、食料支給時においても順番をしっかり守リ、必要以上に受け取らず「他の方に回して上げてください」という行為には「なぜそんなことができるのか?」と世界中が信じられない思いで受け止めた。

未曾有の災害に見舞われながら自分も苦しいはずなのに、お互いに助け合い協力しあおうとする日本人の強さと民度の高さに世界中の人が驚き称賛した。
「日本人のあのような行動はどこからもたらされたのだろうか」と世界中のメディアが疑問を投げかけた。

世界が驚嘆する日本人の強さはどこから生まれてきたのでしょうか。

わが国は,世界でも有数の災害大国です。
古代より毎年のように地震や津波,台風,豪雨,土砂崩れ,洪水,火山噴火,豪雪による災害に見舞われてきたのです。
日本はまさにこうした災害と「共生している」といえる国だ。

こうした何度も襲われる災害に対して立ち向かい、再び復興させ、繁栄を取り戻すにはみんなで協力していくことが必要だったのです。
自分さえ良ければという考え方では何度も襲って来る災難には立ち向かっていけません。

お互いに協力し合う「相互協力」が必要だったのです。

驚くことにこのような考え方は聖徳太子が制定したとされる日本初の憲法である「十七条憲法」にすでに定めれていたのです。
人々が平和に暮らしていくための規範が記されていて、しかも憲法の第一条に書かれているのです。

和を以て貴しとなし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
「お互い仲良く調和していくことが最も大切であリ、争いごとは良くない」と記されていてこの後「何事も話し合いで決めよう」と続いている。

このような考え方を持って作られた国が「大和」である。
世界中が感嘆した日本人の礼儀正しと忍耐力の強さの原点となる考え方が今からおよそ1400年以上も前に聖徳太子によって記されていたのです。
その先進性に驚嘆すると同時に日本人てやはり凄いと改めて思わされる。

グローバル化による競争社会が推し進められています。
グローバル化された社会は能力のあるものだけが生き残る弱肉共食の競争社会です。
競争社会に生きる現代人は疲れて疲弊しています。
だからこそ日本人が見せた行動が人間らしく生きる憧れの社会として世界の人々に共感を与えたのではないでしょうか。

多様な文化や価値観が国境を越え国際競争が激しくなっていくグローバル化時代になればなるほど、日本人が持つ「強さ」と「優しさ」「他人への思いやり」は今後人間らしい生き方の理想像として求められていくのではないでしょうか。

これこそが胸を張って世界に誇れる日本人の誇りです。

古代より脈々と受け継がられた日本人の崇高な精神性は失われずしっかりと私達のDNAの中に受け継がれていました。

 

 

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